【読書】外山滋比古『乱読のセレンディピティ』(扶桑社文庫)

こんにちはasakunoです。
今回は、外山滋比古『乱読のセレンディピティ』を紹介したいと思います。

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

<概要>

”セレンディピティ(serendipity)”とは、
「思わぬものを偶然に発見する能力。幸運を招きよせる力。」
を意味します。(広辞苑)

本書は、講演が元になっているということもあって、
口述筆記のようなライトな書き振りなので、誰でも肩の力を抜いて読める本だと思います。(あとがきには、「大部分は新稿」と記されていますが…)

また、知識第一主義を否定するスタンスで語られますので、
ピエール・バイヤールの著作『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んで、共感された方には、うってつけかなと思います。

内容は、タイトルどおり乱読の効能について、著者の経験を元に、エッセイのような語り口で綴られていきます。

どちらかといえば、これから卒業論文を書く学生向きかなとは思いますが、
読書を趣味とするような社会人の方にとっても、今後の読書スタイルの参考に大いになると思います。
(読書家にほど刺さる論点が多いとは思います…)

<読書に対する著者のスタンス>

本を舐めるように読むのではなく、風のように読め、(まえがき)

そして、著者の読書スタンスに大きな影響を与えたであろうエピソードが紹介されています。

文庫本のためのまえがき(pp.1〜)

(前略)大学が卒業論文を書かせていたころ、よく勉強する、まじめな学生が、つまらぬレポートのようなものを書いた。参考にした本を引きうつしにしたようなものもある。それが知的正直にもとるという自覚すらないのだからあわれである。

 それに引きかえ、あまり勉強に熱心でなく好きな本を読んでいる学生が、ときとして、生き生きとした、おもしろいモノを書いた。論文とは言えないにしても、自分の考えたことが出ているのである。少なくとも人の考えを借りて自分のもののように思うといった誤りはおかしていない。やはり、本を読みすぎるのは問題である。そう思って、本の読みすぎを反省したのである。

…まさに私(前者)だなと思って読みました。

「読まなくてはいけない」というプレッシャーに押しつぶされ、また、参考文献を読み漁りすぎた結果、いろんな研究書のつぎはぎのような卒業論文になってしまう・・・
あるあるではないかと思います。

読書一辺倒にならず、自力で考える力を身に着けるためには、どういったスタンスで本と向き合っていったら良いのか、
著者なりの読書論が具体的な経験をもとに語られていきます。

<目次>

1 本はやらない
2 悪書が良書を駆逐する?
3 読書百遍神話
4 読むべし、読まれるべからず ※下段にて一部紹介
5 風のごとく……
6 乱読の意義
7 セレンディピティ
8 『修辞的残像』まで
9 読者の存在
10 エディターシップ
11 母国語発見
12 古典の誕生
13 乱談の活力
14 忘却の美学 ※下段にて一部紹介
15 散歩開眼
16 朝の思想

<一部紹介>

私が読んでいて、個人的に面白いなぁと思ったところを、いくつかご紹介したいと思います。

4 読むべし、読まれるべからず

・知識と思考は相反する関係にある

知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識の借金は、返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。

 読書家は、知識と思考が相反する関係にあることが気がつくゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する。

(中略)

 本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力にかけているためである。知識は、化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。(pp.58)

* * *

 知識があると、本来は役に立たないものでありながら、それを借用したくなる。そしてそれを自分の知識だと思っている。(pp.60)

※下線は引用者による 

今までの自分の読書の仕方について、意識しないようにしていたところをストレートに刺してくる感じですよね・・・

14 忘却の美学

・記憶は新陳代謝する

記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。ときに消滅するかもしれないが、つよい記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による想像的変化をともなう。(pp.197)

ピエール・バイヤールが言うところの、
「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」や「幻影としての書物」を想い起こしますね。
両者の読書論の方向性が似ているなと思う根拠でもあります。
(まぁ理解が浅かったり、私の解釈誤りも多分にあるでしょうけれど、
それも私の”内なる書物”として消化されてるので仕方ないですね〜。

こんな感じで気楽に書評(ともいえないただの感想駄文)が書けるのも、
ピエール・バイヤールのおかげです。本当に読んでよかった。
(…他の本の賞賛にもなってますね笑)

 <おわりに>

「本を読んでいない」という「やましさ」を解消することを目的とした、
ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、
外山滋比古の本書を併せて読むだけで、未だに神聖視されている「読書」についての気負いをだいぶ和らげられるのではないかと思います。

もちろん、読書そのものを否定するものではありませんし、
いわゆる基本書というのは抑えておくべきものだと思います。
ただ、その基本書(に限りませんが)の「抑え方」について、
精読しよう、理解しようと気合を入れて立ち向かうのと、
両書の読書論を参考にしながら、”自力で考え”、また”書物の自己投影的性格”を意識して立ち向かうのでは、
同じように通読しても、得られる感想は全然異なるものになるのではないでしょうか。

<参考>『思考の整理学』

ちくま文庫から出ている、『思考の整理学』の方が有名ですね。
大学の書籍部には必ずと言って良いほど平積みされている書籍かと思います。
(私もはるか昔に読んだ記憶はあるんですが、すっかり忘れてしまっているので、
何かのタイミングで読み直したいですね)

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

獅子文六『コーヒーと恋愛』(ちくま文庫)

たまには小説が読みたいなと思っているところ、書店でふと目にとまってなんとなく購入した一冊です。

タイトルから、ほの苦い恋愛小説かな?と想像しがちですが、
いわゆる切ない系の恋愛小説とは趣が異なります。わりと現実的な展開が多いです。

主人公は脇役として売れている中年女性の俳優、モエ子。
新劇に情熱を抱き続ける年若のパートナーと結婚生活を送っていたところ、
パートナーよりも10歳以上も年下の若い女の子からのアプローチによって、
生活がいっぺんする・・・

登場人物同士を縁をつなぎとめているのは、コーヒーという共通の嗜好。

ラストの展開はちょっと意外なものでした。

コーヒーと恋愛 (ちくま文庫)

コーヒーと恋愛 (ちくま文庫)

 

久しぶりに大衆小説を読んだなぁという印象でした。

また、昭和のいきいきした、希望が残っている時代の空気と、
演劇・テレビといった芸能で生活している人々の生々しい生活が
巧みに描かれている印象を受けました。
作者自身の経験や、直接に見聞きした要素が小説として結実した感じでしょうか。

主人公は女性ですが、女性心理を衝く、までの描きこみはなかったかなと思います。

ともあれ、女性として、強く生きていこうとする主人公にはかなり共感できますし、
元気ももらえました。

ちょっとした骨休めに最適の一冊。

this is us をseason2まで見ました。

Amazonプライムで、this is us を2ndシーズンまで見ました。

良いドラマですね。セリフ表現にシナリオライターの思想が露骨に出ていて、批判されているエピソードもありますが、そこを除けばとても良いドラマだと思いました。
とくにseason1ではたくさん泣きました。
ネタバレになるので詳細は書きませんが、
幸せってなんだろうな、って考えさせられるドラマです。
そして、幸せがふとしたきっかけで壊れてしまう、人生の不条理さと、
そこから立ち直る人間の強さと、支えてくれる人間の愛と、
いろんなものが詰まったドラマだと思います。

2周目をゆっくり味わいながら見たいと思います。
(season2まで見終えてから最初に戻ると、主人公たちの精神的な成長がとてもよくわかりますね。)

season1でケイトが歌っていた、time after timeの、voice avenueによるcover
https://youtu.be/tpm_kITevv0

火曜日

まずは毎日書くことを目標に。今日も融けるような暑さでしたね。
アパートのエアコンが全然効かなくて困っています。

夕飯に久々にリンガーハットの野菜たっぷりちゃんぽんを食した。
もうちょっと鮮やかな野菜を混ぜて欲しいな。青ネギとかにんじんとか。
若干、ウサギの気持ちになった。

3連休の帰省

会社のお盆休みというものが無いので、この3日連休を使って東京の実家に少しだけ帰省してきました。

lemon

帰省のついでに、丸善丸の内店4階にあるMaruzen cafeに行ってまいりました。
で、せっかくなので梶井基次郎の「檸檬」モチーフの、レモンムースのケーキを。
検索して出てくるレモンムースよりも、見た目が可愛くなってますね。
夏にぴったりの、ほのかな酸味の優しいケーキでした。

丸善は、普段の土日に比べると人は少なめでしたが、
まぁまぁの人出でしたね。

早く新型コロナが収束してくれると良いですね・・・

フランツ・カフカ『アメリカ』(中井正文訳、角川文庫)

アメリカ (角川文庫)

アメリカ (角川文庫)

 

カフカの『アメリカ』を読了しました。
作品の解説やら感想はとりあえず置いておいて、
とにかく、作品の終わり方がとても良かった。

それが、作者が意図した終わらせ方なのか、
単に未完であったのかは検討の余地があるとは思いますが。
(というかその辺は私が言及するまでもなく、
 分厚いカフカ研究によって詳にされいるのかもしれませんが)

章立てを紹介しておきます。
第1章 火夫
第2章 伯父
第3章 ニューヨーク近在の田舎屋敷
第4章 ラムシーズへの道
第5章 オクシデンタル・ホテル
第6章 ロビンソン事件
第7章 隠れ場所
第8章 オクラホマの野外劇場


主人公カール・ロスマンの作中での遍歴から、
新しい土地でどういう不条理が待ち受けているかは想像に難くない・・・
いや、新しい土地でようやく今までの苦労は報われるのか・・・

想像を大いに膨らませ、期待と不安を抱きつつページをめくると、
突然、物語は終わっているのです。

自分ではどうしようもない、外的要因によって目まぐるしく変転する主人公の境遇、
読み手からすると、
あるときは自分に重ねて共感し、またあるときには傍観者として同情し・・・

激しく感情を揺さぶられるというよりは、
世の中の不条理のなかで抵抗できずに生きて行かざるを得ない人間の、
一人の人間の無力さを、
痛感させられる一冊でした。


長塚節「土」

土

  • 作者:長塚 節
  • 発売日: 2012/10/02
  • メディア: Kindle版
 

先日の読売新聞(茨城版)の記事、<作品の中の茨城>(12)シリーズにて、長塚節の「土」が紹介されていました。恥ずかしながら、未読でしたので、また積読リストに追加。
青空文庫でも読めますね。

常総市国生というところが舞台となっているそうです。生家は県指定文化財になっているとか。藤沢周平が『白き瓶』というタイトルで長塚節の生涯を小説に著しているようです。(お恥ずかしながらこちらも未読。)

白き瓶  小説 長塚 節 (文春文庫)

白き瓶  小説 長塚 節 (文春文庫)

 

長塚節(1879-1915)
なんと、正岡子規門下で、アララギ派の代表歌人なのですね。小説「土」が有名なので、小説家とばかり思い込んでおりました。
「土」は、1910年に『東京朝日新聞』に連載された小説のようです。享年37。原因は結核…

ちなみに12歳年上の正岡子規(1867-1902)は結核を患い36歳で夭折。

正岡子規について興味を持ち始めたばかりなのに、読みたい本やら調べたい作家がどんどん増えていきますね・・・

がんばるぞ・・・

フランツ・カフカ『アメリカ』(中井正文訳、角川文庫)

カフカは「変身」しか読んだことがなかったんですが、
知人から勧められて『アメリカ』(「失踪者」という標題の方が有名?)を読んでいます。

アメリカ (角川文庫)

アメリカ (角川文庫)

 

1912〜1914年に執筆されたと言われています。
世界情勢的には、第一次世界大戦が始まる直前になりますね。
主人公は16歳のドイツ人の青年。
女性がらみの問題で、両親からアメリカに追い出さ、見知らぬ土地を放浪する物語です。

半分くらい読んだのですが、
世の不条理がずっと描かれているようで、
この先を読み進めるのも少し不安な心持ちがします。。。

読後の感想や、カフカについて調べたら、また改めて文学カテゴリで記事を上げますね。

海外コスメの個人輸入〜The Ordinary

The Ordinary という化粧品をご存知ですか?
カナダのDECIEMという会社の化粧品ブランドです。
デパコス並の成分が入っているのに、プチプラで購入できるため、
コスメホリックの人たちから注目されているようですね。

私は、偶然、友人から「HyaluronicAcid 2% B5」という、
ヒアルロン酸の保湿美容液を1本もらったのがきっかけで知りました。

The Ordinaryは、組み合わせて使ってはいけない美容液もあるんですが、
(成分同士がぶつかって、分解されて効果が得られなくなったりするようです。)
ヒアルロン酸美容液は、組み合わせを考えなくても良いので、初心者も安心。

日常のケアの最後に、薄く伸ばして使用したところ、
肌がもちもちしっとりになりました。

日本ではまだ未発売。

気に入ったのでリピートしようと思ったものの、
残念ながら日本ではまだ販売されていません。
Amazon や楽天で購入することはできますが、手数料相当を上乗せされいてるのか、だいぶお高い価格設定になっています。
…それだとプチプラの意味がないですよね。

海外通販サイトを利用して、個人輸入してみよう

聞けば、私にThe Ordinary をおすすめしてくれた友人も、
個人輸入したとのこと。

早速調べて、今回、はじめて使ってみたサイトがこちら。
cult BEAUTY
通貨はイギリスポンドですが、本家サイトのUSDとあまり価格は変わらず、レートによっては若干お安く購入できることもあるでしょう。
ただし、(これは購入した後に気づいたんですが)、
cult BEAUTYのラインナップだと、30mlしか選択できません。
(商品としては30ml 60mlの2種類ありますね。)

60mlで購入したい方は、他の通販サイトかDECIEM公式から直接購入してみるのも良いと思います。
(保存料などが入っていないので、30mlにして劣化しないうちに早く使い切る、
という考え雨もあるので、どちらにするかは好みの問題ですね。)

<cult BEAUTYの利用について>
◆日本の通販サイトとつくりはほぼ同じです。
 購入したい商品をバスケットに入れて、購入手続きに進むだけ。
 ※もちろんアカウントを作成する必要はあります。

◆送料について
 40GBPを超えるとフリーになります。
 有料オプションで、fedexのトレーサビリティーをつけることができます。
 ※オプションをつけなくても、cult BEAUTYのマイアカウントページで
  発送番号を表示できるので、fedexのページに飛べば、
  注文した荷物がどこにあるか、おおまかに位置を掴むことはできます。
 ※高額の注文の場合は、関税・輸入消費税・通関手数料などが
  かかってしまう場合もあるので、事前に調べておくとよいでしょう。

注文してから届くまで

7月18日に注文して、7月25日に届きました。
予定では、7月27日18時とされていたのでちょっと早め。
fedexの貨物の動きを見ると、
バジルトン→スタンステッド→シャルルドゴール→広東→成田 と運ばれたようです。
船便かと思ってんたですが、空輸でした。
通関後は、私の場合は、日本郵便にバトンタッチされて、メールで配達連絡がありました。

送料 freeにするためにまとめ買いしたヒアルロン酸6本とbuffet(←挑戦)

個人輸入って、本当に届くか心配だったり、海外通販サイトが(英語なので)ちょっと手こずったりしますが、
実際、挑戦してみると意外と簡単だったりします。
今回は空輸だったので、そんなに待つことなく手元に届いて幸せ。

ためしに購入してみた、buffetについて、
使用感などは改めてレポートしたいと思います。

★参考までにAmazonと楽天のページを貼っておきます★
 まとめ買いをする前にためしに購入する場合は、
 使い慣れた国内のサイトを使用しても良いですね。






国木田独歩「武蔵野」 ー沈められた恋愛の記憶

こんにちは。asakunoです。

今回は、教科書にも必ず載っている、国木田独歩の「武蔵野」を紹介したいと思います。

(ネタバレ?を多く含みますので、まっさらな状態で作品を味わいたい方は、この先は読まないでくださいね。)

 刊行されていて手に入りやすいのはこちら。 (青空文庫にも入っています。)

武蔵野 (新潮文庫)

武蔵野 (新潮文庫)

 

「武蔵野」という作品は、国木田独歩が渋谷村の茅屋に滞在していた1896(明治29)年9月〜1897(明治30)年4月頃の、国木田自身の日記を元に書かれた随筆です。

(フィクションがふくまれるので、小説の要素もありますが…)

「散策」や「落葉林の美」を発見した、等々を指摘されることが多いようですね。

明治30年代の、「武蔵野」の雑木林の繊細な自然描写がとても美しい作品です。

ですが、この作品、ただ「武蔵野」を散策した叙景だけではないのです。

これについては、没後に刊行された国木田の日記『欺かざるの記』と合わせて読むことで、作品の隠された背景を知ることができるようです。

『欺かざるの記』(『国木田独歩全集』7巻、1966年、学習研究社)※抄録が文庫本で刊行されています。『国木田独歩全集』自体が、所蔵図書館が少ないので読むのはなかなか困難そう…

結論から先に言いますと、

この「武蔵野」が書かれる背景として、独歩(当時26歳)の失恋の物語があるのです。

一見、恋愛の要素は全く見受けられない「武蔵野」。

しかし、そもそも独歩が渋谷に一軒家を借りて秋〜翌春まで滞在したのは、失恋の傷を癒す目的もあったのです。

独歩の「武蔵野」の散策は、失恋によって絶望の底にいる自分自身との対話をするための散策でもあったわけですね。

誰しも一度は経験したことのある、失恋。

ふだん目にする光景も、失恋の最中では見えかたは変わってくるものです。

独歩の描いた「武蔵野」が、失恋のショックの中で生み出されたと思うと、少し作品の印象が変わって来ませんか。

もしかすると、失恋の中にあったからこそ発見された「武蔵野」の光景かもしれません。

さて、失恋のお相手は佐々城信子。

信子一家は、北海道の開拓地に住んでいたそうです。独歩は信子との恋愛に後押しされて、北海道で信子とともに生活することを夢想し、実際に北海道へも赴きました。

(その北海道の大自然との対峙も、「武蔵野」の発見にも繋がったようです。余談ですが。)

そして、逗子にて2人で結婚生活をこころみたものの破綻、信子は母のいる北海道に帰っていったそうです。

その5ヶ月後、独歩は渋谷に茅屋を借り、武蔵野散策を始めることになります。

孫引きになっていまいますが、赤坂憲雄『武蔵野をよむ』(岩波新書1740、2018)に引用されている独歩の日記『欺かざるの記』を見てみましょう。

武蔵野の一隅に此の冬を送る。われ此の生活を悲まざる可し。昨年の今月今夜は逗子に彼の女と共に枕にひゞく波音をきゝて限りなき愛の夢に出入せしことあり。今はたゞ独り此の淋しき草堂に此のものさびしき夜を送る。あゝ吾は此の生活を悲まざるべし。

(十一月二十六日)

(赤坂同上、pp.40)

このような、悲哀に満ち満ちた日記が続いているようです。

相当なショックだったことがわかります。去年の同じ日付に何をしていたかまで細かく思い出して日記に書くなんて…その思いの強さに恐怖すら感じます。

しかし、こんな強い感情を内に秘めつつも、「武蔵野」の自然描写には微塵も失恋の影は偲ばせていません。

一方、「武蔵野」の後半には、次のような場面があります。

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。

(中略)

 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。(後略)

ここでは「ある友と」、と独歩は表現していますが、赤坂憲雄は『欺かざるの記』と照らし合わせることで、これが8月の信子との逢瀬との記録であることを立証しています。

そして、こういった「ズラシと隠蔽」の意図を、「郊外の散策の純粋さ」を損なわないためだと推測しています。

このように失恋の記憶は、ときには完全に捨象される一方で、あるときには執念深く形を変えて残されているのです。

文字通り読んでしまえば、秋から冬にかけて「武蔵野」が最も美しく映える季節、瞑想にふけりながら五感で自然を感じる朗らかな散策、友との懐かしい散策の思い出の記憶のように、見えてしまいます。

しかし、独歩の人生を並べて読んでみると、そこには激しい失恋の痛手から立ち直ろうとしつつ、未練をなかなか断ち切れない1人の青年が苦悩する姿も浮かび上がってきます。

独歩はこの失恋の後、約10年後に生涯を閉じることになります。

失恋の影響はわかりませんが、短くも悲劇的な独歩の人生を考えながら、「武蔵野」を味わってみるのも、面白いかもしれませんね。

***

閑話休題。

なんの前置きもなく「武蔵野」を連呼してきましたが、

そもそも、「武蔵野」とはどの地域を指すのでしょうか。

江戸幕府開府までは、中世の古戦場趾以外には名所旧跡もなく、人の住まない荒涼とした野原であった「武蔵野」。

西行や芭蕉にも、萩、ススキ、萱(カヤ)、オミナエシ等とともに詠まれてきました。

独歩は、「武蔵野」の中で、新たに武蔵野の範囲の定義を試みています。

(厳密には、本文中「朋友」の言葉として語らせています。)

東半分は

亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取り除いてもよい。

と、断定にためらいがありますが、西半分についてははっきり領域を示しています。

そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西反面。

これを地図にプロットしてみると、↓のようになります。

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「武蔵野」の西半分

西半分だけでも、現在の私たちが抱く「武蔵野」イメージよりもかなり広範囲を想定していることがわかります。

当時は明治30年代。独歩が居を構えた渋谷村(現・渋谷区NHK放送センター近辺)のあたりはまだ “郊外”だったそうです。

この「武蔵野」に含まれるエリアは、当時はまだ都市化の波に完全には飲み込まれていない場所だったということでしょうか。興味深いですね。

なお、本記事を書くにあたり、非常に参考にさせていただいた書籍はこちらです。

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

 

当時の自然環境や都市の状況、同時代の作家(田山花袋や柳田国男)の残した記録などから「武蔵野」を丁寧に検証するとともに、先行研究において「江戸の文学的伝統」からの「切断」を指摘していた柄谷行人に批判的な立場を取っています。

そして、近世からの連続性(「歌枕的な伝統」の承継)を立証しています。